2023年09月号 第100話 夏がくれば思い出す はるかな尾瀬
「夏がくれば思い出す、はるかな尾瀬」あまりにも有名な「夏の思い出」の歌の一節です。私は大学時代に登山をしていたので、尾瀬には水芭蕉の季節や秋に何度か訪れたことがあります。世界的にも貴重な高層湿原であり、豊かな自然が訪れる人々を魅了します。しかし、この尾瀬がダムの底に沈んでしまう計画があったことをご存知でしょうか。
1910年代に尾瀬にダムの計画が持ち上がると、単身で反対運動を行ったのが、平野長蔵です。1922年に尾瀬沼の畔に「長蔵小屋」を建て宿泊客を受け入れ、冬は雪に閉ざされる場所に住み、ダム建設を見直す嘆願書を時の内務大臣に提出します。しかし太平洋戦争後も尾瀬のダム建設計画は進展していきます。長蔵の死後、息子の平野長英が長蔵小屋を継ぎ反対運動を続けます。これを文化人、登山家が支援し、尾瀬の自然保護運動が展開されました。特に植物学者の武田久吉は尾瀬の紀行文を紹介するなどして、尾瀬の自然保護運動に貢献しました。これが日本の自然保護運動の草分けです。
反対運動によりダム建設は頓挫しますが、尾瀬が有名になり観光のための道路建設計画が持ち上がります。長蔵小屋3代目の平野長靖が反対運動を行いますが道路建設は進みます。長靖は尾瀬の入口まで道路建設が迫るなか1971年7月、当時の環境庁長官大石武一の自宅を訪れ建設中止を直訴します。その後、大石長官は長靖とともに現地を視察すると直後に建設は中止されました。同年12月1日に長蔵小屋からの下山途中、吹雪の三平峠で寒さと疲労による衰弱のため長靖は36歳の若さで凍死します。こうして尾瀬の自然は守られることになりました。
自然保護と観光は相容れないものと考えられていますが、果たしてそうでしょうか。平野長蔵は尾瀬を守るためには尾瀬を知ってもらう必要があると考え、長蔵小屋を建て観光客を迎えました。当時は自然保護と言いながら破壊をしていると言う人もいました。しかし実際に見ないと素晴らしさは理解してもらえません。誰も知らないのなら、どんなに素晴らしい自然も破壊されてしまいます。結果的にはこの活動が尾瀬を守った訳です。
自然保護と言いながら観光客を入れて(破壊するようなことをして)生業とする。これが正しい姿なのか。若くして亡くなった平野長靖はこうした矛盾を心に抱えていました。尾瀬の山小屋はすべて撤去するべきだと主張する人もいます。それも間違いではないでしょうが、観光と自然保護はどこかで折り合いをつける必要があると思います。
尾瀬沼の畔にある平野長靖の墓石には「まもる、峠の緑の道を、鳥たちのすみかを、みんなの尾瀬を、人間にとって、ほんとうに大切なものを」と記されています。
草津栗東医師会 会長 新木真一(あらき内科クリニック)