2021年11月号 第80話 椿井文書:現代に残る江戸時代のフェイクニュース

小学生時代は枚方市の津田という町に住んでいた。古い街並みが少しだけ残っていて、背後には津田山という小山があった。そこに昔、津田城という山城があり、津田氏という豪族が町を治めていたという歴史は、津田に住んでいるならば知る人が多かったと思う。地理や歴史好きの小学生だった私も、学校の図書室で枚方市史を読んで、そのことを知っていた。

ところが最近、「椿井文書-日本最大級の偽文書」(馬部隆弘著 中公新書)という本を読んで、津田城も津田氏もまったくの虚構であったことを知り、大変驚いた。筆者である馬部氏は以前、枚方市の市史担当部署に勤め、津田城の歴史を調べた。津田城は室町時代に作られたと伝承されているが、それが記載されている文書はいずれも江戸時代(十七世紀以降)であるという。また津田城の遺構とされている場所は山頂ではなく谷の最深部にあり、敵が山頂に陣取ってしまえば容易に攻撃されてしまうなど、城郭としては考えられない構造をしているそうだ。筆者の結論は、津田氏や津田城は江戸時代に創作されたフィクションであり、津田城址とされている遺構は、山岳寺院だった可能性が高いということである。

なぜこのようなフィクションが作られたのだろうか。実は津田山の支配権をめぐって江戸時代に津田村と、隣接する穂谷村の間に争いがあり、津田村の住人が支配権を正当化するために津田氏-津田城伝説を創作したらしい。中世にさかのぼって津田山と津田の町が一体のものであったという主張である。これに対して穂谷村は、古代に朝廷によって穂谷に氷室(朝廷で使われる氷の貯蔵庫)が築かれ、それゆえに穂谷村は朝廷との結びつきが強く、より古くからこの地域の中心的存在だという反論を行った。この反論の根拠とされたのが、「三之宮文書」といわれる一連の古文書である。これらは室町時代に作成されたとされているが、実は江戸時代に椿井政隆という国学者が、穂谷村の主張を正当化するために創作した偽文書なのである。

江戸時代には各地で里山の領有権を巡る争いが頻発し、このような偽文書もたくさん作られたらしい。なかでも椿井政隆が作成した偽文書(椿井文書)は津田村のあった北河内(大阪府北部)だけでなく、椿井政隆の本拠地のあった南山城(京都府南部)から近江(滋賀県)にかけて大量に残っている。椿井文書は様々な筆跡で書き分けてられているため区別がつきにくく、偽書同士を相互に引用し合うことで正当性が感じられるように巧妙に作成されているという。このため偽書と見破られることなく生き残り、逆に各地の地域史の重要な資料となってしまっている。
歴史に関心を持つ人は多い。最近は城がブームであり、「歴女」という言葉もよくつかわれる。自分の地域の歴史に詳しく、その由来の古さなどに誇りを持っている人も多い。私が読んだ「椿井文書-日本最大級の偽文書」は中央公論新社が主催する2021年の「新書大賞」で第2位に選ばれており、歴史ブームの中でたくさんの人に読まれている。しかし一部の人にとって、この本は大変迷惑な存在になってしまったらしい。2020年5月8日の京都新聞(Web版)にはこう書かれている。

「山城地域の歴史関係者からは馬部氏の主張について「緻密に実証されており、反論は難しい」との声がある一方、椿井文書が長年重視されてきたこともあり、戸惑いも大きい。

椿井文書があまりにも巧妙に書かれているため、それをもとに多くの郷土史が作成されている。なかには、それにちなんだイベントやモニュメントまで存在する。「椿井文書-日本最大級の偽文書」で紹介されている例では、室町時代(1492年)の古図を椿井政隆が筆写したとする「円満寺少菩提寺四至封彊之絵図」が室町時代の絵画として湖南市の文化財に指定されており、同市にはそれを記念した陶板の大きなモニュメントがあるという。地元の人は「いまさら偽書と言われても…」と困惑しているだろう。実際、「椿井文書には別の史料や出土品から正しさが証明されている内容もあり、全部が間違っているとは言えない」と主張する郷土史家もいるようだが、馬部氏によれば、別の資料などを利用しながら偽の歴史を作り出している点が椿井文書の巧妙なところであり、椿井文書が独自に展開している歴史はやはり事実ではないとのことである。

人間は自分が信じたいことを信じ、自分が信じたくないことは、たとえそれが事実であっても否定したくなる生き物である。アメリカのトランプ前大統領は、「フェイクニュース」という言葉を世界中に流行させた。自身に不都合な報道に対して、「それはフェイクニュースだ」と決めつけ、事実ではないという印象を世間に抱かせようとしたわけである。トランプ前大統領を支持した人は、トランプ前大統領の言うことが正しそうだからではなく、そう信じたかったから信じたのだろう。馬部氏の論証にもかかわらず、椿井文書が正しいと信じたい人たちもそうである。人間は、「専門家の言っていることは間違いだ。世間の人が知らない真実を自分は知っている」と思うとき、大きな優越感を抱くことができる。

これが陰謀論を信じるエネルギーになり、専門家が長年にわたって築き上げた知識を一言で否定してしまう反知性主義にもつながっている。私自身の専門領域である認知症に関しても、「アルツハイマー病はこれで治せる」といった類の書籍が後を絶たない。しかし残念ながらアルツハイマー病は原因すらはっきりわかっておらず、予防法や治療法は確立していない。最近アメリカで使い始められた新薬があるが、その効果はおそらくかなり限定的なものである。治せないアルツハイマー病とどうつきあっていくか、アルツハイマー病があってもよりよい生活を送るためにはどうしたらよいかを考え、支援していくことが現時点で我々ができることである。不都合な事実から目を背けることなく、地道に取り組んでいきたいと思っている。

宮川  正治(南草津けやきクリニック)