2018年09月号 第42話 水上トランスポート
ある日、草津市支那町の患家(藤○さん)から往診を頼まれて行った時のことです。住宅地図で患家の番地、村道からのアプローチ、家屋の配置を確認し、家の正面入り口はやや広くとってある琵琶湖側かと思い、車を止めました。しかしながら、駐車場、空き地としては広いのだが、どうもこうも、ここは患家の裏手でした。高齢のおばあちゃんの診察を終え、御主人と話していると、「結構、裏手の方が、正面玄関かと思ってきはる人が多いんですわ。昔はここは水郷地帯でして、玄関の前は今は道路になっていますが、昔は水路だったんですわ。あるとき、絵描きさんが、家の前の風景を描かせてくれと言ってこられて、何か月かして、絵を一枚残して去っていかれました。ほれ、玄関横に掛けてあるのがそれです。」みると、家の前は水路になっているではないか!この辺では、昔は刈り取った稲の運搬、米の出荷なども水路を通る笹船を使っていたらしい!!考えてみると、道路や鉄道が発達する以前は、大量の物資の輸送、さらには人の往来も水運が主役でした。
私の生まれは北陸・富山で、高校時代に習った地理の記憶をたどれば、水郷といえば茨城県の霞が浦周辺を思い浮かべます。しかし、明治・大正・昭和の前半までは、琵琶湖の東岸は湖が複雑に入り込んでいて、さながら水郷地帯であったのだと改めて認識したしだいです。遠くは、信長・秀吉の時代に安土城へのトランスポートの主役は水運であり、さながら西洋のベニスのような立地であったことでしょう。そして信長は琵琶湖の水運を仕切って、穀物の運搬のみならず、軍事の重要な役割を担わせ、戦に利用し、本人も幾度も船で往来していたことであろうと思われます。
近江の国の近隣に目を向けると、大阪は秀吉さんが造った街。江戸時代の地図を見ると、淀川水系と旧大和川ス系からなる水路が網の目状に張りめぐらされ、物資の運搬に格好の地となっていました。さながら、東洋のベニスと言われ、経済の中心となり発展していたのです。一方、京都は高瀬川から高瀬船で伏見港に至り、伏見からは三十石船で淀川水系を経て大阪へとつながっていました。さらに東の方へは、大津港から琵琶湖の水運によって若狭・敦賀や岐阜・尾張方面へとつながっていました。
さて、さらに話を平安時代にさかのぼってみよう。小野小町という絶世の美女の誉れ高い歌人がいたことはご存じかと思われます。生まれには諸説あるものの、私はここではお米の秋田小町の名称にもなっている、現在の秋田県南部にある雄勝郡(おがちぐん)が有力と思い、以下のことをつらつら考えました。小野小町は地方国司として都から秋田へ派遣された小野一族の娘として生まれ、13歳の時に出生地から京の都へ上り、まもなく和歌の才能を見いだされるとともに、美貌も兼ね備えたことより、後世にその名を残しています。
しかし、車も鉄道もない時代に13歳の娘が、秋田からどのようにして京の都にたどりついたのでしょうか。最初はおとぎ話か作り話と一笑に付しておりました。しかし、私はある夏休みに東北旅行で偶然にかの地(秋田県雄勝郡)、の道の駅に立ち寄りましたところ、秋田の雄勝郡から南の山一つ越えれば(そんなに険しくない)、山形県の真室川、新庄市あたりに至るではないですか。ここは江戸時代初期に登場する俳人、松尾芭蕉さんの「奥の細道」に出てくる有名な場所の最上川の水系です。「五月雨を集めて早し最上川」一旦ここまで辿り着けば、13歳の娘といえども、従者を従え、舟で最上川を下り、酒田港に出るのは芭蕉さん同様、容易いことです。さらに船で日本海を敦賀港まで行けば、あとはひと山越えて、北琵琶湖の近江塩津に至る。とてつもなく困難なことではないようです。陸路を想定するととんでもないことで、不可能の文字がでてきます。「花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに」
先日、わが生家の菩提寺の住職に会ったときのことです。「麻柄さんちの家の裏手には昔は舟着き場があったようだと聞いております。」とのこと。私は父や祖父からそのような話を聞いたことはありませんでした。私の生家は海岸から2Kmばかり入っているところで、家の左右には小さな小川が流れ、裏手で合流していました。後日、田んぼの基盤整備事業で、その流れは変わってしまっております。しかしながら、幼少期の記憶をたどり、その流れを下流へたどると、白岩川(2級河川)にいたり、さらに富山湾に至り、立派な運送路となります。収穫された米を笹舟で近くの港まで搬送し、さらに大きな船に移し替えて、加賀の国・金沢あるいは敦賀港まで輸送していたものであろうと思われます。今は、家の周りに水路は残るもののコンクリートのU字溝で固められ、流れも変わり、ゴムボートも通れぬ川幅しかありません。
時代は変わり、高速鉄道、道路輸送、航空機など、人・物の輸送手段は大きく変遷してきています。しかし、いつの時代にも物資の輸送、人の往来の要となる土地に人が集まり、家が建ち、町ができ、文化、科学、芸術が発展してきたものです。滋賀県には空港や海の港はないですが、東西に通じる名神高速、第二名神、新幹線、湖上の水運あり。交通が行きかう所となっています。ただし、単なる通過点でなく、往来の要の地となれば、さらなる発展をとげるであろうとつらつら思う次第です。
麻柄 達夫(まがらクリニック)