2021年06月号 第75話 南草津のヒストリエ

京都からJR琵琶湖線の新快速で17分。エスカレーターを登り改札を抜けると、都会として発展した一面と、少し駅から離れると古き良き時代の面影を残す南草津の街が広がります。この古今入り混じった独特の空気感を漂わせる草津市野路町の昔の歴史に少し思いを馳せたいと思います。

南草津のヒストリエ

今でこそ、駅前は背の高いマンション群が立ち並び夜遅くまで営業している居酒屋、飲食店も多くあり都会化が今も急速に進行していますが、私がまだ学生だった30年ほど前は、未だ開発途中でビルやマンションもほとんどなく田んぼや緑の方が目立つ風景が広がり、深夜まで営業しているお店は国道1号線に定食屋と旅館の「萩の家」(滋賀医大生からは、「はぎのけ」と呼ばれていた)があるぐらいでした。国道1号線を西から来て矢橋の帰帆島へ向かう時はこの「萩の家」さんの左を細いですがショートカットできる斜めの道があり私自身はもちろんのこと地元の人から愛着を込めて「ハギノケカット」と呼ばれていました。

さて、野路の歴史は、源俊頼が野路の玉川を歌に詠むところにはじまります。ここらの記述は人づてに聞いたものなので正確ではないかもしれませんがご容赦下さい。
野路宿は、平安時代の京都と鎌倉の交通に重要な役割を担います。すなわち京都から出た東山道が滋賀に入り、野路宿で分岐します。愛知川から関が原へ向かう東山道と水口から鈴鹿峠を越えていく東海道の分岐点です。今の草津市追分あたりから山寺、栗東のトレセン付近から石部に向かう道が当時の東海道だったようです。実際に野路宿は宅地造成の時に見つかった遺跡からもその存在がうかがわれます。平家の大軍が野路宿を通ったとか、源義経が野路宿で平家の誰かを斬ったとか、北条時房の鎌倉群が野路宿で休憩したとか、1100年代、1200年代のまさに源平の合戦の渦中の記述に野路宿は多数登場し日本の歴史の立役者たちの背景として重要な役割を担っていたことが伺えます。

ところが1299年に初めて「草津」という地名が登場したのが確認されているそうですが、その頃から野路宿という名前、地名は衰退し、その交通の中心は東海道と中山道の分岐点である草津宿に移っていくことが読み取れます。

時代は大きく飛んで現在。野路宿が元あった現在の野路町にある南草津駅は、新快速が停車するだけではなく滋賀県のJRの駅の中で最も乗降客数が多い駅となり、今年の3月からは、関空特急「はるか」号が止まる特急停車駅にもなりました。また交通の中心が野路町に戻りつつあることを少しうれしく、また歴史のめぐりあわせとは実に数奇なものであると思わせられます。

吉﨑 健(玉川スマイルクリニック)