2020年05月号 第62話 縁は奇なるものなり
私はお隣の福井県生まれで、御縁があって滋賀県に来て30数年になります。私の夫は越中・富山の生まれですが、ほぼ35年の滋賀県在住歴です。「麻柄」(まがら)という名字はまれではあるが、同じ発音の「真柄(まがら)」という名字が福井県越前市に存在し、私は慣れ親しんでおります。戦国時代に越前・朝倉氏の豪勇無双の武者・真柄(まがら)十郎左衛門直隆という人物がおり、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍として勇敢に戦ったものの、徳川の兵に討ち取られたとの史実が語られています。
あるとき宇都宮琢史先生のお言葉で、「麻柄先生の先祖は姉川の戦いで徳川に討ち取られたのですね」との内容を言われたこともあるらしいです。きっと負け組の朝倉家臣の真柄一族は、織田・徳川に追われて、遠く越中・富山まで落ち延びて行ったんだろうね。逃れるために名も「真柄」から「麻柄」になったんじゃないの。平家の落人と同じようなものと、最近まで思っていました。ところが、2年前に主人の父が他界し、遺品を整理していたところ、遠い北海道の親戚の方が平成9年に個人的に出版した「我が家の小史」1)という本がでてきて、「麻柄家」の出自に関して、意外なことが書いてありました。
執筆者は昭和62年頃から約10年間かけて、遠く北海道から富山県や滋賀県を訪れ、資料を収集し、出版に至ったようです。この小史の冒頭、第1章のタイトルはなんと「奈良時代の麻柄家」ではじまり、東大寺にある正倉院に保存されている759年(天平宝字3年)の古文書の中に「麻柄勝首」(まがらすぐりおびと)の名があり、日本古代人名辞典2)に「麻柄勝首全麻呂」(まがらすぐりおびとぜんまろ)の名があり、当時、先祖は近江の愛知郡に住み、造東大寺史生(役人)あるいは、造香山薬師所別当(新薬師寺造営の長)として奈良に赴任していたと考えられると3)。官位は従七位ではあるが、当時としては、地方の豪族や郡史など相当の身分として有力者並みと思われると。富山の主人の分家では、「富山の麻柄家の間では、『昔、都からに移ってきた』との言い伝えがあるとのこと」。
瀬田の滋賀県立図書館で、町史「近江愛知川町の歴史」4)を開いてみると、麻柄勝全麻呂は東大寺大仏建立の他に、天平宝字4年(760年)に石山寺造営のための祖米納入に関与し、職人、物資、食糧の調達など、総務部長というところでしょうか。「湖東町史」5)においては、文化財として勝堂の古墳群があります。このなかで「おから山古墳」と名づけられたものがあります。「麻柄」は当時、「オカラ」とも読まれたとの記述があり、ひょっとしたら、これはこれは御先祖様のお墓ではないか、夫は一度お墓詣りせねばと、とんでもないこと申しております。
いずれにしても、1200年もさかのぼる古代ロマン物語、本当であれ、作り話であれ、何かの御縁で夫は滋賀県石山に住み着いております。古代先祖の活躍の地に帰り、毎朝、石山寺・瀬田の唐橋を渡り、栗東の診療所に通勤しています。ある種の充実感と安堵感からなる至福に包まれ運転しています。そして、私は週何回か、車をぶっ飛ばし、旧湖東町へ通っています。
麻柄 俊江(まがらクリニック)
参考文献
- 麻柄幸光:麻柄家の系譜を辿る わが家の小史. 山藤印刷 札幌 平成9年3月18日
- 古代人名辞典
- 大日本古文書、寧楽遺文
- 近江愛知川町の歴史 雄山閣出版 平成17年12月20日
- 横田英男:湖東町史 1979年