2017年06月号 第27話 アメデオ・モディリアーニと女性たち

伝説化された魅力をもつアメデオ・モディリアーニは、1906年の冬、21才の時に、生れ故郷イタリアのリヴォルノをあとにしてパリにやって来た。およそ15年間のパリでの生活において、たくさんの波乱に富んだ熱愛を経験した。

モディリアーニは誰もが認める際立った美貌を兼ね備えていた。知的で生まれながらの教養人であった。すでに、アルコールやハシシは彼の生活の一部となっていた。又、結核や腸チフスなど病弱を宿命づけられていた。数多くの女性が、彼の後を追い回した。彼の死後、モディリアーニを父に持つとされる子どもたちの面倒を見るためモディリアーニの兄がモントルナスにやって来たが、自分の子がモディリアーニの子だと言い張る女性の多さに閉口して断念してしまった。

3人の女性が、モディリアーニの人生に大きな影響を与えた。第一に、ベアトリス・ヘイスティングスであり、次に、ルニア・チェホフスである。彼女は、画商ズボロフスキ―の妻ハンカの友人でしばしばモディリアーニの作品に登場する。第一次世界大戦の間、モディリアーニの大切な心の友であった。恋愛関係はなかったと思われる。最後にジャンヌ・エビュテルヌが挙げられる。

ベアトリス・ヘイスティングス

モディリアーニより5才年上のイギリス人である。ジャーナリストであり、詩人であり、また、美術批評家でもある。モディリアーニに出会ったのは、1914年で、彼女がパリを訪れて間もない時期である。それから2年近く(1914年~1916年)激情と波乱に満ちた生活を共する。エクセントリックで、強い自己主張をもつ彼女とモディリアーニは、アルコールやハシシの影響もあって、しばしば激しい喧嘩をしたが、一方で文学だけでなく哲学にも深い造詣を持つこの知的な女性との生活は、モディリアーニの創作に様々な刺激を与えた。少なくとも14点の作品のモデルを務めている。口論の果てには必ずつかみ合いの喧嘩をする2人であった。

モディリアーニは、ベストリスやジャンヌなど最も親しかった女性には、決して裸婦のモデルとして使用することがなかったとする説もあるが、逆に彼女たちをモデルとして何度も裸婦を描いたという説もある。画中に「ベアトリス」と書き込まれた裸婦の素描が1点だけ残されており、これが彼女をモデルにしたものであることはほぼ間違いはない。モディリアーニの裸婦については、裸婦に陰毛が生えているという理由で、公序良俗に反するということで警察によって展示会を中止させられたというエピソードが残っている。

ジャンヌ・エビュテルヌ

モディリアーニが美術学校に通う18才の女学生ジャンヌ・エビュテルヌに出会ったのは1916年12月と推測される。15才もの年の差があった。ベアトリスとモディリアーニが別れたのは、この年の夏のことで、その後、モディリアーニは、もう1人の女性と短期間生活を共にしていたと言われており、恐らくジャンヌとの出会いは1916年末のことと思われる。またたく間に2人は激しい恋に落ちた。2人は翌1917年7月になると、モンパルナスのグランド.シュミエール街の家で同棲を始めるが、その関係は半年以上もの間、ジャンヌの両親にも伏せられていた。

中産階級出身のジャンヌは、メランコリーで、内気で、しかし、個性的な女性であった。彼女は盲目的と言ってよい程モディリアーニを賞賛した。その点で彼がそれまで付き合った女性たちとは異なっていた。ジャンヌとの出会いでモディリアーニにはある程度平穏な生活が訪れるが、彼は生活態度を変えようとはしなかった。しかし、1917年12月には、モディリアーニはやせ衰えて、大量のアルコールを飲むことも出来なくなっていた。酔うには一杯のアルコールで十分であった。1918年3月には不健康に加えて戦争による窮乏やパリへの爆撃などのため彼の健康状態は一層悪化していった。裸婦の展覧会のスキャンダルはこの年のことであった。

1918年11月29日にニースの病院で娘ジャンヌが生まれる。1919年には、ジャンヌは2人目の子供を身ごもる。モディリアーニは妻と娘のため、又、ズボロスキーとの約束のため懸命に制作に励む日々であった。1920年1月に入ると筆をとることも出来なくなり、病状は悪化の一途をたどることになる。1920年1月24日意識が薄らぐ中、慈善病院に搬送される。病院に向かう途中、モディリアーニは、かすれた声で悲しげにつぶやいた。
「僕の脳みそはほんの少ししか残っていないみたいだ。もう終わりのようだね。」
「僕は妻を抱きしめて、永遠の喜びの中で僕らは結ばれるんだ。」

その言葉を残して1920年1月24日の夜、35才の若さで結核性脳膜炎のため永遠の眠りについた。身重のため病院に付き添えなかったジャンヌは、彼の死を知らされ、「ええ、彼が死んだことはよく分かっています。でも私のためにすぐに生き返るだろうことも分かっています。」

1月26日早朝、ジャンヌは自分が生まれたアミュ街の家で、6階の窓から身を投げて命を絶った。8ヶ月の身重であった。ジャンヌの両親はモディリアーニとともに葬儀を行なうことを拒否し、バニュの墓地で密葬が行われた。モディリアーニの葬式は「王子の葬式」と言われた。芸術家、職人、カフェのウエイターらも長い葬列に加わった。行列が通ると警官たちは敬礼の姿勢をとった。パリの誰からも愛されたモディリアーニであった。
孤児となった娘ジャンヌは、モディリアーニの姉マルゲリータに引き取られた。1930年以降に、モディリアーニの傍らにジャンヌ・エビュテルヌの遺体が安置された。

草津栗東医師会 監事 関川 浩嘉(せきがわ医院)